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永遠に完成しない物語 見城徹著『読書という荒野』 #熱狂書評

本日より、全国の書店の店頭に並び始めた『読書という荒野』
そして、大型書店のメインスペースをことごとくジャックする本書。著者である見城徹さんの鋭い眼光が、通りすぎる客の視線を独り占めします。

そして何と発売前に3刷が決まり、既に7万部を突破した本書。

ここで箕輪さんの名言を…。

本日3回目の連載となった「熱狂書評」もその火力をさらに強めていきます。

続々と流れてくる「#熱狂書評」。そんな中、今回はなんと、モテクリエイターのゆうこすさんが書評を届けてくれました。初めてブログで本について書いたと語る、ゆうこすさんならではの新しい視点。そして、ゆうこすさんから見る「大好きな見城社長」。

「モテと読書は直結しているのでは!」と語るその真意とは。

それぞれの書評にはそれぞれの語り口があり、自身の人生が投影されているように思えます。書籍は一つでも、書評はその数だけ物語があります。続々と届く「熱狂書評」にも、その炎の裏側に秘めたる物語があります。

一般発売前にいち早く『箕輪書店』から本書を購入した山田麻子さんは、自身の軌跡を振り返るとともに、名物編集者「ケンケン」について語ります。

本を開くときにだけ、そこにいる「ケンケン」。本の中に住む幻は、人生に何をもたらしたのでしょうか。

「『読書という荒野』が、わたしを再びここに連れ戻してくれました」

この言葉が意味することとは。

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「読書という荒野」

まさかの再会でした。

5月の最後の金曜日、箕輪編集室の運営チームの皆さんとCAMPFIREでお会いし、コミュニティについてひとしきり熱く意見を交わした後に。

ケンケンの本だ!

さえない高校時代のわたし。クラスのすみっこ女子で、とにかく本ばかり読んでいました。ハードカバーも文庫本も、もちろん雑誌も。毎号欠かさず買っていたのはマガジンハウスの「Olive」で、山田詠美さんの「放課後の音符(キーノート)」の連載を読むのが大好きでした。

(上記は8歳の頃のわたし。地元で本好きの子ども、として名を鳴らしていました。今見ると昭和感が半端ない写真・・・)

暗くなれば田んぼみちにコウモリが飛ぶような田舎。恋愛は奥手。いつも片思い。そんなわたしにとって詠美さんは都会のあこがれの女性。気が付けば小説だけでなくエッセイ(熱血ポンちゃんシリーズ、略して”熱ポン”)が出版されるたびに書店に駆け込み、頁を繰るのももどかしく文字を追いかけて全身で詠美さんエッセンスを吸収していたものです。

そんな詠美さんのエッセイに登場する名物編集者のケンケン。

あの頃のわたしたち熱ポン読者にとって、ケンケンは特別な存在でした。詠美さんの素晴らしい才能を世の中に送り出すだけでなく、熱ポンを彩る個性的な登場人物のひとり。イッシーとともに繰り広げられる珍道中。詠美さんのエッセイを通して海外で、バーで、パーティで、ケンケンはいつだってわたしたちと一緒でした。

その後、幻冬舎という新しい出版社を立ち上げられ、たくさんの伝説とともに作家の情熱や狂気を「本」にかえてきたケンケンとイッシー。非力ながらずっとずっと応援していました。幻冬舎から出版されるものはとがった作品が多く、「邪道」と嫉妬まじりの批判をされることもありましたが。

邪道、上等だよ。

ケンケンを知らない批評家たちにわたしはそっと毒づいていました。よこしまな道と揶揄する輩に伝えたい。そもそも正しさとは何なのか。何をもってして正しい道と君たちは呼んでいるのか。わたしたちが歩いた後ろに道はできるんじゃないか。誰かが作った舗装された道路を歩くためにわたしたちは生きているんじゃない。

文学というのは人間のもつ原罪や、生や、愚かしさを題材にするからわたしたちの心を揺さぶり、人生観を変える。その覚悟もないのに、評論家を標榜するな。倫理観で書かれた小説を読みたい人は、いるのか。

そして時を経て「読書という荒野」に巡り合えました。

本著にも取り上げられている「シンプルな情熱」(アニー・エルノー著/ハヤカワepi文庫)は、ケンケンが幻冬舎を立ち上げた1993年に邦訳が出版され、詠美さんが何かのインタビューで取り上げたタイミングでわたしも読みました。

当時わたしは19歳。正直、よくわかっていませんでした。性愛のことも、人間の持つ業の深さも。とはいえ乾いて理性的な文体でつくられたこの作品のことはいつもどこかにひっかかっていました。

その後はじめて結婚した相手との関係が行き詰まってしまい、突き動かされるように一人でパリに。そこで「この結婚はもうダメなんだ」という確信に近い思いを得て。

帰国し、平日の勤めと並行して土日に三宿の交差点にあった吉野家でアルバイト。肉盛りができるようになって時給が930円になった4か月後、引っ越し資金がたまり離婚。自分が選んだとはいえ想像以上に離婚という事実に打ちのめされ自己肯定感を損ないもがきました。

そんな時に読み返した「シンプルな情熱」。ようやくしっくりとはまる感触がありました。自分の中の情熱(パッション)と、抗えない恋情。手放さなければいけないもの。終わりの日のこと。もう二度と会えないと受け入れること。再生していく日々。自分が経験したこととなぞらえて、文字が熱をもってわたしに迫ってきました。

わたしはそれでも生きていく。陳腐な言葉でしたが、腹がすわりました。

あれから16年。夫と娘と幸せに暮らしているわたし。あんなにつらかったはずの離婚当時のことも、この本のことも忘れていました。日常は残酷です。覚えていたかったはずの、なくしたくなかったはずのこの感情も、あっけなく手放してしまっていました。いたはずでした、が。

「読書という荒野」が、わたしを再びここに連れ戻してくれました。

本著の中でケンケンが紹介してくれている本は、思春期から成人するまでに読んでいて感銘を受けたものばかりでした。読むうちに落涙しそうになるのを必死でこらえ、それぞれの物語の登場人物とすごした日々、そして言葉にならない感情と向き合いながら、ああ、やっぱりケンケンはすごいなあと打ちのめされています。

今はただただ、本が読みたい。読みたい本がある。幸せな人生です。

山田 麻子
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ひりつくような原体験に紐付く書評を寄稿いただいた麻子さんのnoteはこちら。

書評という重厚な物語。それは長さではなく、独自の視点。

最後に、箕輪編集室メンバーによる一言書評を紹介します。

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「夢」「希望」「成功」、そんな言葉は、豚の餌にでもなればいい。

言葉の選択に命を賭けたことはあるか。
夢や希望や成功という言葉を使えるだけ、寝る間も惜しむ圧倒的努力で現実と格闘しているか。

正確な言葉がなければ、深い思考はできない。
深い思考がなければ、人生は動かない。

正確な自分の言葉を獲得するために、自分自身とタイマンを繰り返す。
思考して、思考して、脳がちぎれるほど思考しきる。
その果てしない格闘の末に、言葉が肉体化され、己が目指した道が開ける。

読書はそのための最も有効な武器だ。

酒井 琢磨
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「言葉の選択」という視点で書いた一言書評。
このように短い書評も募集しています。「#熱狂書評」をつけてTwitterで呟いてくれれば、目を光らせている編集部が見つけにいきます。

それにしても発売直後にこれだけ多くの書評が集まっているのは、『読書という荒野』にそれだけの魅力があるからに他なりません。それはつまり、著者である見城徹さんの魅力でもあります。

「大好きな見城社長」であり、名物編集者「ケンケン」でもある。読者の数だけ面を持つ見城徹という人間は、もはや永遠に完成しない物語にさえ思えてきます。

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テキスト 清水翔太
編集 篠原舞

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