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自己を見つめ、他者を想う 見城徹著『読書という荒野』 #熱狂書評

発売直後からTwitterのタイムラインに溢れかえる『読書という荒野』の「熱狂書評」。箕輪編集室メンバーはもちろん、それ以外の方々も「#熱狂書評」をつけて自身の思いを呟いてくれています。

そもそもなぜ発売して間もないのに、ここまで書評が集まるのでしょうか。

その秘密は、箕輪書店にあります。

本日の「日刊みの編NEWS」で話題となった、箕輪書店。箕輪さんが読みたい!と思った本を買って売る仕組みで、すでに東京のみの編イベントでは『読書という荒野』の販売を行っています。

今後も『若手力』など箕輪編集室主催のイベントに箕輪書店が出店。また、BASEでの販売も行う予定です。

このツイートにある通り、ゆくゆくは店舗での販売も可能になりそうです。

そんな箕輪書店でいち早く『読書という荒野』を入手した人たちが、いち早く読み、そしていち早く書評を書いているのです。

「一般発売前に買う」という情熱が、本を繰る手を急かし、そしてその情熱がそのまま書評へと伝播するのです。それが「熱狂書評」の本質。

本日は、そんな箕輪書店でいち早く本を入手した箕輪編集室メンバーの書評を紹介します。「熱狂書評」プロジェクトリーダー清水翔太の書評です。

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「読書」は自己と他者の境界線

深く息を吸い、ゆっくり息を吐く。
そして頭の中をぐるぐると巡る雑念を拭い、目の前の書籍と向き合う。

前作の『たった一人の熱狂』を読んでから、一日のはじめに「死」を意識するようになった。朝の光で照射された残りの人生は、確かに「死」に向かって伸びているようだ。

そんな明らかに限りある時間の中で、「読書」は人々の中でどのように位置づけられるのだろうか。日頃のストレスから解放される娯楽か、それとも教養を深化させるためのツールか。

現実世界と戦う自己を確立する

その答えに正解はないが、見城徹さんは私の想像の及ばないような位置付けをしている。

思えば僕が熱心に読むのは、何らかの困難に陥ったときだ。鶏が先か、卵が先かわからないように、困難を経験したから読書をするのか、読書をするから困難を乗り切れるのかわからないが、読書・困難・読書・困難というサイクルが人生においてずっと続いてきた。だから、困難と読書は不可分の関係にある。

発売直後、熱狂的な盛り上がりを見せる『読書という荒野』の中で、見城さんはそのように語っている。

「困難に陥ったとき」に本を読むとは、一体どういう意味なのだろうか。

読書というのは、むしろ現実世界から遠ざかる行為だと思っていた。困難な状況を目の前に、「現実逃避」だなどと言う人もなかにはいるかもしれない。

見城さんはさらに下記のように続ける。

孤独と不安を読書によって埋めようとしていた。困難に陥ったときには、人は藁にもすがろうとする。そのときに心のよすがをどこから得るかといえば、やはり読書しかない。

孤独と不安を読書によって埋める。それは、一見逆効果にさえ思える。「孤独」や「不安」は、読書という行為による外界との乖離で、余計に大きくなるのではないか。私は、見城さんがそう言い切る理由を必死に探した。

すると、序盤にこのような文章が記述されていた。

本を読めば、自分の人生が生ぬるく感じるほど、過酷な環境で戦う登場人物に出会える。そのなかで我が身を振り返り、きちんと自己検証、自己嫌悪、自己否定を繰り返すことができる。読書を通じ、情けない自分と向き合ってこそ、現実世界で戦う自己を確立できるのだ。

「文章を読む」という行為からは想像もできない、精神の所業。言葉の中に溺れ、物語の奥底まで入り込み、現実からは完璧に閉ざされた別世界で登場人物と対峙する。

目の前の人物は鏡のように、読者である自分を映し出す。自己検証、自己嫌悪、自己否定の視点から見る自分は、ただただ情けない。

そんな自分と正面から向き合うことで、「現実世界で戦う自己を確立」する。到底、現実逃避などではない。目を背けていた現実に、勇敢にも向き直る。

他者への想像力を磨く

では、「自己を確立」することで、完全に現実と対峙できるのだろうか。「現実世界で戦う」とは、確立した自己をもって、自分を困難に陥れた環境や他者に抗うことなのだろうか。

ここにもう一つの視点がある。

読書をすることは、実生活では経験できない「別の世界」の経験をし、他者への想像力を磨くことを意味する。

自己に厳しい視線を投げかける一方で、他者を本質的に理解する「想像力」を養う。自己を確立し、他人を理解する。ここが完成して、はじめて現実世界と戦うことができる。困難な状況から脱却する道筋が見える。

現実世界では困難な状況に陥ると、問題の本質が覆われ、自己の問題は他者の問題にすり替わり、他者の問題は自己の問題にすり替わる。自己と他者の境界線が曖昧になる。そこに境界線を引くのが「読書」なのかもしれない。

きっと、その境界線は自らを真っ二つに切るような痛みを伴う。だから「読書」には血が伴う。それを覚悟した者にしか、本当の「読書」はできないのかもしれない。

だがそれを越えたところに、薄っすらと道しるべが見える。

一心不乱に本を読み、自分の情念に耳を澄ます時期は、必ず自分の財産になる。

「読書」は必ず財産になる。

向き合う事象が抱える真理は、きっと「読書」をした者にしか分からない。見渡す限り果てのない荒野にあるたった一つの真実を探す旅、それが「読書」なのかもしれない。

そのように綺麗に結論づけてしまいたいが、まだまだ分からない。私には「読書」が分からない。

見城さんの綴る文を読みながら仮説を立てては、その裏付けになる記述をさがす。それを繰り返し、最後のページを繰るが、消化し切れないところはある。

そうか、もしかしたら荒野にでも迷いこんだのかもしれない。

ほんの少しの間、目を閉じて横にでもなろう。手にした幾つかのヒントを思い浮かべ、あれこれ考えながら、荒野の真ん中に横たわろう。

清水 翔太
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本の中に潜ることで、自分を見つめ、他人を想う。会社や学校では教わらない、困難への解決策。『読書という荒野』は、そんな人生の種を読者の心にそっと植えます。しかしその種は、そのままでは育たない。考えて、考えて、考え抜いてやっと花開く。

箕輪書店では、そういった人生の指針になるような書籍を、箕輪さんが厳選して販売します。そして、箕輪編集室公式noteでは読了後の冷めない熱を、「熱狂書評」としてそのまま未来の読者に伝えていきます。

引き続き、まだまだ募集しています。ぜひ「#熱狂書評」をつけて呟いてみてください!

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テキスト 清水翔太
編集 篠原舞

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