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「認識者」から「実践者」へ 見城徹著『読書という荒野』 #熱狂書評

昨日から始まった「熱狂書評」プロジェクト。

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着火直後から、名著『読書という荒野』の書評でTwitterのタイムラインが燃え上がっています。

燃えたぎる炎に油のように注がれる「熱狂書評」。その勢いはとどまるところを知りません。

そんな中、『読書という荒野』の構成をご担当されたNewsPicks編集部エディターの野村高文さんが、書評を届けてくれました。

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今回、ライターとして『読書という荒野』の構成を担当しました。

見城さんの取材は、毎回が真剣勝負。通り一辺倒の質問は一蹴される代わりに、見城さんの思想を深く理解し、考え抜かれた質問には、これ以上ない真剣さで答えが返ってきます。

中でも印象的だったのは、「見城さんにとっての『教養』とはどういうものか。世の中で言われている『教養』は、果たして本当に教養と呼べるのか」という質問を投げかけたときのことです。見城さんはこちらを眼光鋭く見つめながら、「単なる知識の羅列は、教養でもなんでもない。読書を通じて自分を理解し、人生や社会に対する洞察を得ることこそが、真の教養なのだ」と語り始めました。

世の中で「読書家」と言われている人の多くが、読書を単なる情報取得の手段にしか捉えていない。しかしそうした態度では、無意味な情報が自分の中に蓄積されていくだけだ。

そうではなく、読書を通じて実生活では経験できない「別の世界」を経験し、自分の心揺らぐ瞬間を発見したり、他者の心理を理解しなければ意味がない。つまり、重要なのは「何が書かれているか」ではなく「自分がどう感じるか」なのだ、と。

この言葉を受けて、私は頭を打たれる思いがしました。そうであるなら、むしろ本をたくさん読む「速読」ではなく、自分の心境の変化を感じながら読む「遅読」のほうが、読書の真の意味を捉えることになる。どうしても「数を読もう」と力んでいた私の価値観を、根底から覆すものでした。

しかも、編集者として数々の作家と関係を切り結んできた見城さんの言葉だからこそ、説得力があります。本書でも書かれている通り、編集者の武器は「言葉」しかありません。言葉を使って相手の懐に入り、言葉を使って作品を書くように仕向ける。そこには「この作家の根底にあるものは何か」という他者への想像力が必要なことは論を俟ちません。

だから、私はこの言葉を聞いた瞬間に、「本書のコアメッセージはこれだ」と確信しました。

そうしてできたのが、本書の「序文」です。だからまずは、ぜひ「序文」を読んでいただけると嬉しいです。冗談抜きで、手に取った方の読書観が変わる一冊だと思っています。

野村 高文

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そして、編集部はTwitterのタイムラインに流れてくる「#熱狂書評」を見逃しません。血で血を洗うように書評に目を通し、今回もきらりと光る書評を見つけました。箕輪編集室メンバーによる書評です。

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熱狂の末に「荒野」に行き着いた一人の編集者

『読書という荒野』を初めて手に取ったとき、ある違和感を感じた。「荒野」という単語を聞いて、荒れ果てた、途方もない、無限にだだっ広い土地を想像したのに対し、表紙の中で書物に囲まれて座っている著者は、じっとこちら(一点)を見つめていたからだ。書物に身体を覆われ、怒っているようにも見える。それは、「荒野」と全く似つかない有限の世界に見える。

ある種の違和感を抱きつつ、恐る恐るページを開いた。濃密な中身によってすぐに文章に没入し、ページを繰る手が止まらなかった。そして、その違和感は最後の最後に解き明かされる。それは「荒野」の真の意味であり、それを知ったときに、これまでの「読書」の概念が霧消した。

血肉化した言葉を獲得する

読書においてまず大事なのは、とにかく本を読むことである。大量に読む。それなくして、読書は語れない。

読む理由は人それぞれだ。何かを実現させるための読書でも、空白を埋めるための読書でも、何でもいい。とにかく量を読むことが大事だ。

本をたくさん読むということは、本文中の言葉を借りれば「認識者」になるということだ。「認識者」は生きる営みに参加する訳ではないので、傷ついたり、悩んだり、苦しんだりすることはない。本を大量に読むということは、安全な場所から、知識を蓄積するということだ。

読むことで知識が蓄積し、自身の血、そして肉となっていく。

戦う「武器」を手に入れる

本を大量に読むことで多くの言葉を吸収したあと、次に必要なことはそれらの言葉を実際に戦える武器に変えていくことだ。この2つ目のステップは、著者の言葉を借りると「実践者」だ。

まずは安全な場所で読書をして、「認識者」になる。そして次は、その言葉を使って発信する。世界を表現していく。生きる営みに全力でコミットする「実践者」になる。ゆえに自分の言葉で発信することには、リスクが伴う。

どんな形であってもいい。Twitterやnoteでも、ブログでもいい。もはや、文章としてでなくてもいい。セールスの仕事でも、エンジニアリングの仕事でもいい。どんな方法でも、とにかく実践する。どんな形であれアウトプットする。

この実践によって、「認識者」の時に手に入れた言葉を、本当の意味で自分のものにしいく。

やりたいことを全てやり、それでもやりきれずに絶望しきって死ぬ

言葉を獲得し、それを自身の武器として使用できるようになり、それでもなおその工程を繰り返す。それが 「読書」であると著者は言う。行き着く先がどこかは分からないが、とにかくこのインプットとアウトプットを繰り返す。著者は、フランスの小説家アンドレジッドの言葉を借りて、本文にこう記す。

行為の善悪を判断せずに、行為しなければならぬ。善か悪か懸念せずに愛すること。

つまり、何のためか、何が起こるのかは考えず、ある種、盲目的に読書をするということ。

さらにアンドレジッドの言葉は続く。

私の心中で待ち望んでいたものを悉くこの世で表現した上で、満足してーーー或は全く絶望し切って死にたいものだ。

著者は、本を読む度に、あるいは世に出す度に思う。「やりきった」と。この世で表現したいものを悉く表現し、出版したい本を悉く出版し、満足がいくほどの読書をしたのだと思う。その瞬間、著者は有限な世界を完成させている。読書で満たせる範囲の世界に、もう余白はない。

だが、その次の瞬間にはもう生まれている次の余白。「出版したい」「表現したい」という願望。満たしては生まれる、余白。永遠に果たしきれない余白。

そこで著者は思う。読書とは「無限に広がる荒野のようなもの」だと。

故に、この著者がこのタイトルに決めたことには大きな意味がある。
この本を徹底的に読む込み、自分の血肉としたい。


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この書評にある通り、「認識者」と「実践者」という「読書」を共通項にした二つの概念は、本書の重要なファクターです。

多方面から寄せられる熱狂書評。「荒野」の只中を歩く読者が、命を削り「書きたい」と思う『読書という荒野』の書評。読了後、インプットで終わらせない本書の魅力。

ここで冒頭の野村さんの書評を思い出す。

読書において重要なのは、「『何が書かれているか』ではなく『自分がどう感じるか』」なのだ。そのことを一番知っている著者の見城徹は、文章を通して読者に問いかける。

―この本を読んで、あなたはどう感じたのだろうか。

「認識者」から「実践者」に移行するその最初の第一歩は、書評から始まるのかもしれない。

と、いうことで、「熱狂書評」まだまだお待ちしてます!
「#熱狂書評」をつけて火傷するような自身の書評をどんどん呟いてみてください!

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テキスト 清水翔太

編集 篠原舞

熱狂書評バナー 内村宗宏

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