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君にその覚悟はあるのか? 見城徹著『読書という荒野』 #熱狂書評

都内の大型書店では、本日から見城徹著『読書という荒野』が並び始めました。


そんな中、既に発売前から盛り上がりを見せていた本書。

この盛り上がりの中から生まれた箕輪編集室公式noteの新企画・「熱狂書評」。

箕輪書店(※)でいち早く本を入手し、並べられた文章の中に没入して読む。そして読後は、誰よりも熱狂的で質の高い書評を、自分の言葉で、ときに自身の経験になぞらえて書く。

そうして出来上がった温度の高い書評を熱を保ったまま記事の中で紹介していくのが、この企画です。

※箕輪書店:箕輪さんが「ほしい!」と思った本を買い取り、それを箕輪編集室メンバーに販売するかたちの書店。

先陣を切るのは、幻冬舎のコグマ部長こと、太田和美部長より届いた熱狂書評です。

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まさに読書血風録だ。本書を読めば、見城が本気で革命を信じ、本気で人を愛し、本気でビジネスを進めてきたことがわかる。見城が駆け抜けたそれらの場面には常に本があった。

本は人を変え、成長させる力がある。ただし、表層には解はない。行間にある魂をえぐり出せ。作者が本当に伝えたかった声に耳をすませ。そんな読書でなければ、時間の無駄でしかない。

この本は精神の張り手だ。その強烈な痛みを受ける覚悟はあるのか? 表面的であることや中途半端を憎み、万事に正対して格闘できるか? 君にその覚悟はあるのか?

これからこの本を読む若者よ、僕は君が心から羨ましい。

コグマ部長
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そんなコグマ部長の営業日誌は、こちらで読むことができますのでぜひ。


「早く読みたいけど、まだ近くの書店にない…」

そんなお悩みをお持ちの方もいると思います。そういう方には、見城徹著『たった一人の熱狂』もオススメします。「読書とは?」を考える前に、「見城徹とは?」を考える大きな一助となる本です。

以下の書評は、この「熱狂書評」プロジェクトのリーダーを務める清水翔太が書いたものです。ぜひ読む際の参考にしてみてください!

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『死』と『熱狂』

「見城徹」− この名前を知らない人も多いかもしれない。恥ずかしながら、私もそのうちの一人だった。この名前を聞くようになったのは、私が箕輪編集室というオンラインサロンに所属するようになってからだ。

「幻冬舎代表取締役社長」− これが、彼の肩書きだ。初めて自身で企画した『公文式算数の秘密』が38万部のベストセラーとなり、その後も『月間カドカワ』編集長時代に部数を30倍に伸ばすなど、その功績を挙げれば枚挙にいとまがない。

そんな折に、6月に新刊が発売されるという情報が飛び込んできた。タイトルは、『読書という荒野』。

しかしそれを読むにあたり、そもそも「見城徹」という人間がどういう人間なのかを少しでも知りたいと思い、2年前の著作『たった一人の熱狂』を購入してみた。


こんなに殺気立っている本が今まであっただろうか。まるで本自体が獰猛な獣のように見える。

本書からは既にほとばしるような熱を感じるのだが、火傷しないように慎重に見城氏の本質に近づいていきたいと思う。

宿命づけられた「死」

本人を見たこともない私は、ネットや周囲の人から聞く情報で、見城徹という人間を作り上げていた。そうして出来あがった人間像は、常に燃えたぎっている、鋼のように強いメンタルを持った巨兵のようだった。

だが、そのような像はただの偶像であるということが、第1章の1ページ目に書かれている言葉で分かる。

孤独を抱えた絶望的な状況の中で、本だけが僕にとっての唯一の友だちだった。

「孤独」「絶望」「唯一の友だち」。当初のイメージとは真逆の言葉が、紙の上で躍っている。

この一文は、「常に熱狂し続けられる編集者という天職に、見城さんはなぜ巡り会えたのですか」という問いへの回答だ。
さらにページを繰ると、こう続く。

死を宿命づけられた生の虚しさを紛らわせるために、僕は子どもの頃から常に何かに入れ込んできた。そうでもしなければ、死への虚しさに押し潰されそうになって、居ても立ってもいられなかった。僕はとてつもなく臆病な人間なのだ。

鋼のメンタルどころか、「臆病な人間」だと自負している。だが、読み進めるほどに、このことが「見城徹」という人間の本質だと分かってくる。

生まれた瞬間から、死に向かって歩みだしているという、どうしようもなく虚しい事実。見城氏はきっと、この事実を誰よりも噛み締めている。だからこそ、「生」に対して熱狂している。これが、「たった一人の熱狂」の根源なのかもしれない。

人は「死」を、どれだけ意識しているだろうか。自身の中で、「死」はリアリティを持って存在するだろうか。

見城氏は、自身の中での「死」という概念の萌芽を、「近所のおばさんが突然亡くなったと聞いた時」としている。きっと、そこそこの年齢になれば誰しも、「死」を身近に感じることはあるだろう。だが、その「死」が、これほどまでに「生への熱狂」の活力になっているだろうか。私自身含め、多くの人が「死」に本当の意味でのリアリティを感じていないと思う。

こうして生み出した「生への熱狂」の中で、見城氏が最も熱量を込めているのが「仕事」だ。見城氏の語る「仕事」は、オフィスワークに限ったことではない。友人との義理や人情、スポーツや娯楽、全てを包括している概念のように思える。

その結果、本書に語られる通り、見城氏は圧倒的な成果を出してきた。成果だけではない、このように文字で起こすことが憚られるほどの歴史を残してきた。尾崎豊、石原慎太郎、林真理子といった数々の生ける伝説を口説き落としてきた。

セールスポイントは「自己嫌悪」

では、彼はどのようにして歴史をつくり続けてきたのだろうか。圧倒的な熱量のみで、それを成し遂げたのだろうか。そのことを考えながら読み進めると、ある一つのキーワードが目に留まった。

「あなたの一番のセールスポイントは何ですか」と問われれば、僕は「自己嫌悪です」と答える。

「自己嫌悪」という一見ネガティブなワード。だがその真意は、次の文に書かれている。

自分が駄目になっていることを自覚できない人間は駄目だと思っている。

つまり、徹底的に自己を分析することで、いち早く「駄目」な部分を検知し、改善を加える。これは限りなくポジティブなことではないだろうか。その証拠に、

「自分はまたしても駄目な人間になってしまった」と自覚するからこそ、人は永遠に戦い、永遠に成長し続けられるのだ。

と書かれている。毎晩寝る前に、今日の出来事を発言レベルまで落とし込み、「この発言はよくなかったか」などとフィードバックしているという。見城氏は、毎日「自己嫌悪」に陥ることで、永遠に成長しようとしている。ここが、一つのポイントだと思う。

「自己の本質」を照射する

そして、この「自己嫌悪」は、冒頭に述べた「死」と一つの共通項があるように思える。それは、己を極限まで客観視しているということだ。

自分は、ただ生きているのではなく、同時に「死」に向かって歩いているという現実の認識。自分のその日の振る舞いや言動が、他人から見たらどう感じるかという問いかけ。「自己嫌悪」に陥りながらも様々な角度から、自己を客観視する。

人が突き破れないような「己の膜」を血塗れになりながら、破り続ける。そこにある「自己の本質」と目を合わせ、逸らさないようにする。そんな過酷な作業を、毎日繰り返している。それが、見城徹という人間だ。

すると、自ずと自分がいま何をすべきかが見えてくる。その答えが、いま見城氏が行っている言動全てなのではないか。そこがほぼ完全に一致しているのが、見城徹という人間なのだと思う。私含め、多くの人はそこにかなりの乖離がある。

「自己の本質」はそう簡単には姿を現さない。毎朝、毎晩、己に問い続けていると姿を表すが、ふと気を抜くとまた膜に覆われてしまう。そんな存在だ。

どうすれば「自己の本質」が見えるんだ、と読者は嘆くかもしれない。その答えは明確には書かれていない。だがやはり、そこには「死」が関係しているのだと思う。

死という視座から現在を照射すれば、今自分がやるべきことが鮮明に見えてくる。

この本の中で、私が一番好きな言葉だ。この言葉にきっとヒントが隠されている。「死」を極限まで感じ、逆算して今を視る。

私はこの文章を書きながら死に向かって歩んでいる。命を削りながらこの文章を書いている。私は死ぬ。あなたも死ぬ。概念としての死ではなく、リアリティのある死だ。

早朝には永遠が見えるとすら思う。しかし、「今日もまた1日死へ近付くのだ」という冷厳な事実を確認し、「悔いのない1日にするぞ」と奮い立ち、朝というとば口から残りの人生を照射するのだ。

私は、この文章を朝に書いている。残りの人生をできる限り明るく照射しながら書いている。限りなくポジティブな行為だ。そう思うと、なんだか幸せな気持ちになってくる。

そして夜が来れば、今日あったことを振り返って自己嫌悪にでもなろう。そうすれば、自分が本当にやるべきことが見えてくる。そうしたら、それに熱狂すればいい。見城徹のように。

清水翔太

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「熱狂書評マガジン」では、このように幾つかの熱狂書評を一つの記事で紹介していきます。


こちらが、箕輪編集室メンバーによる一言書評。

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思想と死と生。
理想と困難と圧倒的努力。
想像力と他者と自己。
負から生まれる究極の正。
読書と見城徹をつないでいるのは、読書によって言葉を得、言葉によって思考を得た、ひとりの男、「見城徹」という人生。

遠藤和真
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これだけ多くの人によって熱く語られる「見城徹」とは。
その全てが、生々しく、かつ鮮やかに綴られる『読書という荒野』とは。
それを手にとった人だけが、熱狂する真実。

皆さんもぜひ、その目で確かめてみてはいかがでしょうか。

と、言ってみたところでコグマ部長の言葉が蘇る。

「君にその覚悟はあるのか?」

そんな「精神の張り手」である本書と対峙する覚悟を持って、ぜひ書店に足を運んでほしい。


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テキスト 清水翔太
編集 篠原舞
素材協力 木内旭洋

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