最後の境界線 落合陽一著『デジタルネイチャー』 #熱狂書評
この頃、書店やTwitter等でよく目にする落合陽一さん著『デジタルネイチャー』。特筆すべきは、やはりその難解さではないでしょうか。
そんな中、6月18日特別対談「『デジタルネイチャー』を読み解く」(箕輪編集室6月定例会)が開催され、編集担当の宇野常寛さんから直々に内容の解説がありました。
この対談、本書の中でも特に第3章と第6章を重点的に解説するということもあり、既に該当章を読んで来ている人も多くいたようです。
発売開始して間もない『デジタルネイチャー』ですが、既に入手している人が多かったのは、先日オープンした箕輪書店(※)が関係しています。
※箕輪さんが「ほしい!」と思った本を買い取り、販売するかたちの書店
そしてこれだけ骨太な本を読了すると、不思議なことに「読み終わっただけではもったいない」、「アウトプットをすることで、少しでも自分のものにしたい」という思いも同時に込み上げてきます。そんな折に、宇野さんのこんなツイートを見つけました。
先月発足した『熱狂書評』プロジェクトメンバーは、その言葉を見逃す訳にはいきませんでした。そこで、宇野さんの解説を思い出しながら、書評を書くことに決めました。
「人間」とは何か。「機械」とは何か。その「身体の物質性と実質性の境界」に着目した熱狂書評です。
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気がつくと、僕は雪山の斜面に立っていた。目の前は吹雪いていて、やや灰がかった白が一面に広がっている。スキー板をはめた両足は、ハの字で雪面を踏んでいる。
何かの合図で、斜面を猛スピードで滑り出した。見通しの悪い視界に、人一人映る様子はない。流れていく景色の中に時折なぜか巨大な岩が見える。やがて進路にもそれが現れるが、足の角度を変えながらかわしていく。だが今度は死角から出現し、ことごとく激突する。
反射的に、装着していた特殊なゴーグルとヘッドフォンを外す。見慣れた元の光景に安堵する一方、僕は恐怖感を覚えていた。
だがそれは、岩に激突する際の恐怖感ではない。仮想空間に没入している、自分に対する恐怖感だった。仮想空間を現実のものだと信じ、岩に激突する恐怖を感じている自分が怖かった。僕はまだ、VRを受け入れられてないのかもしれない。そう感じた。
”有機的な身体がデジタルに置き換えられると、身体の物質性と実質性の境界があいまいになる”
落合陽一さん著『デジタルネイチャー』の一文には、確かにそう書かれている。
まさに、「身体の物質性と実質性の境界があいまい」になっていたのだろう。この線引きが明確であれば、僕は恐怖を感じることはなかったはずだ。
本書には、普段目にしないような難解な単語が並び、その一つ一つにかなり細かな注釈が付されている。「現代の魔術師」との異名を持つ、落合陽一さんの綴る文章を読むのはそう容易ではない。
異界に誘われて
『魔法の世紀』で定義づけられた、「デジタルネイチャー」という言葉を理屈で理解するには、それこそ巻末に記された参考文献に目を通す必要さえあると思う。
だが、そんな心配は無用と言わんばかりに、読者は「まえがき」で既に「デジタルネイチャー」の世界に迷い込むことになる。
著者は、とある山奥の宿場町に向かう車中、暗がりの中でヘッドライトが照らすその道を見ながら、カーナビゲーションシステムと音声ガイドを頼りに、ただ進んでいる。
”僕は今、感覚器の環境要因による機能不全を、電信系・外部記憶装置・モニターといったテクノロジーで補い、それを身体の一部のようにして感じながら進んでいる”
”その反面、本当の自然であるはずのフロントガラス越しの風景は、どこかリアリティに欠けている”
ここで初めて、この「まえがき」で何を言いたいかが分かる。目の前で、「自然」と「機械」の境が歪み、著者は未知の空間に身を置くことになったのだ。
小説を読むように物語に入り込み、ふと気づくと「身体の物質性と実質性の境界があいまい」な状態が目の前にある。それは「計数(機)的な自然」、つまり「デジタルネイチャー」だ。
こうして「現代の魔術師」は、少し警戒する読者に魔法をかけ、「デジタルネイチャー」の世界に誘う。そこからは、安心してその異界に身を委ねるだけだ。
思考停止の先にある恐怖感
では、その「境界」とはどういうことなのだろうか。
“現代は、人間が機械のように振る舞い、機械が人間のような挙動をする時代だ。”
本文中の例に出てくるように、女子高生AI「りんな」やVチューバーなどは、まさに後者の代表例だ。それら「人間のような機械」に反射的に嫌悪感や恐怖感を示すのは、自分が想定している「境界」が侵されたからではないだろうか。
だが、そもそも何をもって「人間」で、何をもって「機械」なのだろうか。それを考える一つの例に、数学者ノーバード・ウィーナーの言葉が引用されている。
“人間を鎖で櫂につなぎ動力源として使うことは、人間に対する一つの冒涜である。しかし、工場で人間にその頭脳の能力の百万分の一以下しか必要としない全く反復的な仕事をあてがうこともまた、ほとんど同様な冒涜である。”
この一文を読んで、自身に当てはめて考えた人は多いのではないだろうか。
僕自身、職場でずっと同じ作業をしていたり、学生時代には無数の英単語をただ愚直に脳に入れ込んだりと、機械的な作業をした過去がある。だが、その際にそれを「冒涜」だと思ったことは一度もない。自身が「機械のような人間」になった際に恐怖を感じることは、全くなかった。
一方で、冒頭のVR体験を思い出す。あのとき、自身が「人間のような機械」になっていること、そしてそれを無条件に受け入れていることに恐怖を感じていた。
この違いが発生した原因は、「人間」か「機械」かという二元論で考え、思考停止していたことにあるのだろう。
「恐れる」のではなく「認識する」
では、「恐怖感」はいかにして解消すればいいのだろうか。
”今後は〈実質〉と〈物質〉、〈機械〉と〈人間〉の区別がつかない世界になる。そのとき我々に残るのは、理性や論理を超えた「宗教」に近い価値観ではないだろうか”
その「宗教」のような価値観に世界が突入していく前に、「身体の物質性と実質性の境界があいまい」になっているという事実を認識することが、第一の条件になる。
つまり、「恐れる」のではなく「認識する」こと。
「区別がつかない世界」というのは、すなわち「境界線が存在しない」ということだ。現在、薄っすらと存在する「実質」と「物質」の境界線。そこから目を離さず、見つめ続けていく必要がある。
その「最後の境界線」に一つの萌芽がある。その芽は、「人間」でもなく「機械」でもない、全く新たな概念だ。その小さな芽に気づいた人間が、この世界を生き残っていくはずだ。
あぁ、そうか。ということは、「恐怖感」はその境を見失った者に訪れるのかもしれない。
僕は改めて、あの吹雪の雪山に思いを馳せる。
特殊な装置をつけた足は、雪を削りながら岩石をかわしていく。雪面に描かれたシュプールは、「『実質』と『物質』の境界線」そのものなのかもしれない。
荒れ狂う吹雪に、時折目を閉じつつも目の前と足元だけを見る。大事な「境界線」を見失わないために。そして、「デジタルネイチャー」を正確に認識するために。
清水 翔太
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「デジタルネイチャー」という言葉にはどこか新しい響きを感じますが、実はもう身近にあるということが、本書を読むことでわかります。「最後の境界線」を見逃さないよう、目を細めて未来を見つめていたいものです。
と、いうことで、そんな未来の道標である『デジタルネイチャー』の熱狂書評、まだまだお待ちしています。「#熱狂書評」をつけて、呟いてみてください! 引き続き、『読書という荒野』の熱狂書評もお待ちしています。
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テキスト 清水翔太